32mmだけ私たちは繋がっていた

「あなたのことで私が知っているのは、名前と生年月日だけだった」ーー

 

市役所へ提出するための離婚届に印鑑を押した彼女は、「ティッシュ出しといてくれればよかったのに」と結婚指輪がつけられたままの左手の指をひらひらさせ、「そう言えば、婚姻届を書くときもこんなこと言ったよね」と笑った。

入籍してから2年が経った頃に彼女から離婚の話を切り出され、「別れる理由は?」と訊ねると、返ってきたのは「あなたのことで私が知っているのは、名前と生年月日だけだったから」という答えだった。

 

神田うのがデザインしたウェディングドレスを試着したり、ウェルカム・ドールに着せる服を縫ったり、披露宴に招待する人のリストを作ったり、そのときは結婚に関するアレコレで頭がパンパンに膨れていたから、マリッジ・ブルーになる余裕もなかったし、それに新しく住む場所とか家具とか寝具とか家電製品とかをどうやって揃えるかとかの現実的な問題も入籍する前に片付けておかないといけなかったから、あなたのことを考える暇なんてなかった。

だから、と彼女は「ら」の音を弱めに発してから溜息をつくと、話していて心地良かったし、あなたがどんな人かなんて気にも留めてなかったし、名前と誕生日さえ知っていればそれだけで十分だと思ってた、と続けた。

入籍して一緒に住み始めたばかりの頃は、あなたがウォシュレットのカバーをきちんと下げないことにちょっとイラッとしたけど、分かり合えないところを愛しく感じたのが間違いだったんだよね、きっと。そんなイライラが積み重なると、あなたの顔を見ただけで動悸が速くなって、胸がきゅーと締め付けられて息苦しくなって、「結婚」という波にさらわれた後はただただ水の中で溺れてる感覚だけがあって……もう、それがイヤになっちゃった。

 

無印良品で購入したタモ材のダイニングテーブルの上で離婚届に氏名を記入していると、向かいの椅子に座っていた彼女が、書かれたばかりの「苗字」の部分に左手の人差し指を突き出し、「ねぇ、これってさ、長さはどれくらいあるんだろう?」と訊ねた。でも物差しが近くにないからわからないよ、と答えを返す間に彼女は椅子から軽快に立ち上がってキッチンに向かい、引き出しからペーパー・メジャーを取り出すと、「IKEAでもらったのがここで役に立つとは思わなかった」と笑いながら戻ってきた。

「私には32mmに見える」と彼女は苗字の下にぴったりとペーパー・メジャーをあてて測った後で顔を上げ、「この苗字は画数が少ないから好きだったな。もし、子供が産まれてたらテストでパパッとすぐに名前を書けるから得だよね」と言い、用のなくなったメジャーを右手の小指にクルクルと巻きつけてから、「私たちの繋がりなんて、この32mmだけ」と呟くと、小指から細長いペーパーメジャーがシュルシュルとごく微かな音を立ててダイニングテーブルに落ちた。

 

離婚届を記入し終えて、2年間住んでいた賃貸を出た。実家は自動車なら30分くらいで到着する距離にあるのだけれど、5年ローンで購入したプリウスは彼女が引っ越しのアレコレでしばらく使いたいからと主張したため、近くのセブンイレブンまで歩きながら、タクシーを呼んだ。

コンビニで購入した『サンケイスポーツ』は「有馬記念」一色。タクシーに乗りながら細かい文字を読むのは疲れるので、目を閉じて一面に掲載されていた有馬記念の簡易な馬柱を思い浮かべる。ラジオからは「東京FM」が流れていたので、それをBGMにしながら予想を組み立てる。

1人気は凱旋門賞帰りの3冠馬オルフェーヴル。ここがラストランというのもあるのか、海外帰り初戦にもかかわらず単勝1倍台の支持を集めていた。この凱旋門賞を2年連続で2着と好走した名馬はコーナーを俊敏に加速し、直線でもストライドを伸ばせるので、小回りコースにも高い適性があった。もしオルフェーヴルが全兄のドリームジャーニーのようにひと捲りをするなら、その後をスルスルと抜け出してくる馬はどれだろう、と想像する。

父キングカメハメハ×母トゥザヴィクトリーのトゥザグローリーは、パワーピッチで走るため小回りコースは合っているし、池江厩舎+C・ルメール騎手のコンビなのに13人気。2011、12年の有馬記念で3着に好走していることから、PAT投票で単勝とオルフェーヴルとの馬連を購入した。

 

「母さんはスポーツジムのヨガ教室に行ったので家には居ない」と父が言い、それで正月休みはいつからなのか、と続けた。もう有休を取っていることを伝えると、プライベートでアレコレと大変なときは仕事を忙しくすると楽になる、と遠回しに気を遣うようなことを諭すので、ありがとう、とだけ答えてからリビングのソファに横になった。

ダイニング・チェアに座っていた彼女は、右手の小指に巻かれていたペーパー・メジャーをゆっくりと解いていて、「もう私たちは1mmも繋がっていないの」と言いながら立ち上がり、くるりと背を向けると、「ティッシュはもういらない」と指輪が外された左手をひらひらと振っている。細い5本の指がゆらゆらと動き、何か言葉を絞り出そうとした瞬間、実家のソファで目が覚めた。

変な姿勢で寝ていたからか首筋と右肩がコチコチに固まっていて、寝返りを打つと「まぁ、何ということでしょう!」という女性のナレーションが聞こえてきたので、有馬記念どころかサザエさんも放送が終了した時間帯だとわかった。「起きたの? ご飯どうする?」と背中越しに母の声が聞こえ、「ご飯はもう少し後でいいよ」と答えてから、ネットの繋がっているPCがどこにあるのかを訊ねた。

オルフェーヴルは4コーナー手前から悠然と捲り、その動きについていけない他馬との差はみるみると開き、1頭だけ次元の違う走りで圧勝。2着以下は大きく離され、内を突いたウインバリアシオン、外からゴールドシップの順に入線。トゥザグローリーは4コーナーで俊敏に反応できずに6着という結果だった。オルフェーヴルとウインバリアシオンのワンツーは4度目だから、「これも繋がりなのかな」と呟いたことを覚えている。

 

そうして、それからーー2014年の有馬記念には、トゥザグローリーの全弟トゥザワールドが出走していた。9人気の低評価ながら、ピッチ走法で小回りの中山を捲れるこの馬にも好走のチャンスがあるように思えた。「トゥザ」の3文字の長さを物差しで測るまでもなく、グローリーとワールドの2頭は父と母が同じなのだから、しっかりと血が「繋がっている」のだ。

パドックを観た後でトゥザワールドからの単勝と馬連を購入した。レースが始まる前、緊張しているからなのか急に尿意を催したのでトイレに入って用を足す。レバーで水を流した後で、ふとウォシュレットのカバーが閉じられていないことに気付き、「32mmしか繋がりがなかったとあなたは言ったけれど、ウォシュレットのカバーをする習慣がついた分だけの繋がりができたよ」と呟き、右手でそっと蓋を閉める。

トイレのドア越しに有馬記念のファンファーレが聞こえたーー。